全角140字から零れ出たこと

一個人の見解です。

国語の先生

あなたが小説を読んで感じたこと考えたこと、それはすごく大切な気持ちだから絶対に蔑ろにしてはならないし、それを感想文にしたり誰かと話し合ったりして言語化することもすごく大切なことだと思う。だけど国語の読解問題はあなたの感想を書くものじゃない。あなたが今しないといけないことは文章の登場人物の感情の動きと行動を掴んで問題作成者の求める解答を作り上げること。

 

今日わたしが塾の生徒さんに話したこと。

わたしは国語という教科が嫌いだ。入試問題の国語なんて意味ねえって思うし、特に小説を題材に問題を作ろうと思ったやつ誰だよやめろよ、とさえ思う(アンチ)。

 

国語の問題というのは文章に書かれてあることが概ね理解できて、問題作成者の問うていることが理解できれば誰でも解ける。あとは人に伝わる言葉にして答えるための基本的な語彙力が必要かもしれないけど、間違ってもそこにセンスは必要ない。

だからわたしは中学時代も、高校時代も国語の成績が良かった。もちろん単語と文法を覚えないといけない古典は壊滅的だったけど。

 

今は塾でアルバイトをしているので生徒さんたちにはひたすらそのノウハウを伝えているけど、こんなの彼らの人生にとってほんとうに無駄な時間だといつも思う。ほんとうは論説だろうと小説だろうと出てきた文章についてどう感じたかみんなならどう考えるかをいっぱい話し合いたい。

問題作成者は筆者の意見のこの部分をまとめろと言っているだなんて淡々と説明してみんなの解答と問題作成者の求める解答とのズレをひたすら埋めていく作業だなんてなにが楽しい?

今日、小説を題材にした問題を解いていて、俺やったらここでこうするわ〜って生徒さんが言ってくれて、なんか、ハッとなった。そうだよね、わたしならこうするなぁって言えばよかったなあ…とか、ちょっとだけ後悔。

わたしのアルバイト先の塾は教材の指定以外には授業の形式も指導の仕方も自由なので、そういう授業をすることもできなくもない。だけど、やらない。入試にはみんなの感想を書く問題は出ないから。

だから今日も、こんな教科はこんな問題は要らねえと心の中で叫びながら淡々と授業をする。

 

わたしの中学時代の恩師は一度だけ、とても独創的な授業をしてくれたことがある。いつもは教科書の内容のまとめを黒板に汚い字で板書するだけの新米教師だったのに。

その授業は「桃太郎の最初の一行に続けて自分たちの物語を作る」というものだった。班のみんなで協力して一人一文ずつ、話の流れが繋がるように、そして何より個々の感性を活かして好きに創作していく。みんながみんな頭を捻って一生懸命に言葉を紡ぎ出す、その時間がとても楽しくて7〜8年経った今でもあの感覚を鮮明に覚えている。

 

ああそうか、わたしはあの時間に憧れてあの時の先生に憧れてわたしもこんな風になりたいと思ったんだ。

大学生になって教職の授業を取って教師の現実を知った。わたしはきっと教師にならない。だから、中学生に教えられるのも今年度までか、もしくはあと一年か。だったらどうせノウハウを伝えるだけの授業であっても、彼らの人生にちょっとだけでも国語って楽しいなって思ってもらえる時間にできるようにもっと工夫したいなあ、などと。