全角140字から零れ出たこと

一個人の見解です。

東山文化と足利義政

中公新書に「日本人と日本文化」という、司馬遼太郎氏とドナルド・キーン氏の対談を収録した一冊がある。その中で取り上げられていた東山文化と足利義政について、彼らの言葉をたくさん拝借しながら考察してみようと思う。

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東山文化は室町時代の文化であるが、現代の日本人につながっている生活文化を中心に、建築やものの考え方の起源はたいてい室町時代である。お茶やお花、能や狂言といった芸術は言わずもがな、物事を記録する習慣が庶民にも身についたのもこの時代である。

 

東山文化が現代日本に深く影響を与える理由はいくつか考えられるが、いちばんは応仁の乱だろう。応仁の乱で文化の源泉である公家たちが地方に避難したことで日本の地方文化が花を開いた。例えば雪舟が造った庭や彼が描いた絵は全国のいろんなところにある。前の時代だったら当然ながら京都だけにあったはずだ。また、学者関白である一条兼良の図書館が応仁の乱で焼けたことで、平安時代の貴重な物語や歌集が焼けて分からなくなってしまったが、もしこれらがそのまま残っていたらその後の新しい文学は生まれることがなかっただろう。応仁の乱とはどうしようもなく無意味で、ただ騒ぐだけの戦争だったが、文化的側面から考えると日本人の文化史を一変させたとでも言えるのではないか。

 

東山文化と切っても切れない関係にある人物は室町幕府の第八代将軍である足利義政だ。義政の人となりには謎が多いと思う。応仁の乱のいちばん激しい戦闘が京都の花の御所であったとき、義政は平気で恋愛をし、酒宴を日ごと夜ごと催して遊んでいたという。当時、京都は街の十分の九が焼けた。飯尾彦六左衛門常房は「汝や知る都は野辺の夕雲雀あがるを見ても落つる涙は」と詠んだという。

一方で義政は自分の知っている人間に対しては心底親切に接した。明治時代以前の貴族の中で唯一、人間は生まれながらに平等であるということを言い続けた人物である。義政は河原に住んでいた阿弥たちをも自分のお座敷に上げてやったという。

 

義政は政治家としてはろくでなしである。現代であればとうに文春砲を食らっているだろう。彼の祖父である義満は国を統一したり勘合貿易を行なったりと政治的に活躍した。もちろん風流の面から言っても申し分なく、特に能については観阿弥世阿弥が称賛するほどの専門家である。義政には祖父のような政治能力はない。或いは、彼は自ら限界を定めて政治から積極的に逃げていたのかもしれない。だから、「人間は生まれながらに平等だ」と言ったそばから応仁の乱で苦しむ人々をよそ目に酒宴に恋愛に遊び暮らしたのかもしれない。

 

義政が建てたことで有名な寺といえば慈照寺である。建設当時の日本人にとっては、現代と同じく銀よりも金が貴重だった。また、もう既に義満が建てた金閣寺があるから、義政はこれから建てるものは初めから前のものほどになれないことを知っていた。ここでもまた義政は初めから自分の世に限界があると感じていたのか、或いは限界を意識的に設けていたのかもしれない。

しかし、どうも現代人の感覚としては、金のような眩しい色よりも銀のような淋しく渋い色の方が日本的だと思わずにはいられない。もちろん感じ方は個人の主観なので一概にそうであるとは言えないが、わたしも慈照寺の方がしっくりくるし、好みである。

 

日本人はもとより将軍というものにそれほど政治家であることを期待していない。もちろん前の鎌倉時代の執権北条氏のように政治家としての手腕を発揮させた人物も一定いるにしろ、特に義政は風流であることだけが人生の価値で、人のために政治をすることに価値を見出していなかったのではないか。義政の、政治や自分の立場についての諦念観であったり、その中でただ風流を追い求め文化を大切にする姿勢というのが日本人には美徳のように感じられるのかもしれない。そしてこれもまた、東山文化が現代につながる文化である理由なのかもしれない。